2012年



ーー−6/5−ーー 九十九里浜踏破大会


 
この時期になると、九十九里浜踏破大会を思い出す。三井化学の茂原工場が主催する行事で、九十九里浜を北端の飯岡から南端の太東崎へ、約70キロの距離を歩くものである。普通に歩けば十数時間かかるので、日が長い6月に行なわれる。昭和40年代から続いており、私が参加したのは30年ほど前だった。社内行事なので、一般の参加はできないが、勤めていた会社が関連企業だったので、募集があった。キャッチフレーズは「雄大にして、馬鹿馬鹿しい行事」。それに引かれて、参加した。

 前夜は、主催者が準備した民宿に雑魚寝をする。早朝3時頃起床して、海岸に向かう。そして夜明け直前に、スタートの合図が発せられた。その時の参加者は300人くらいだったか。勤めていた会社の新入社員も、研修の一環として全員参加させられていた。薄暗い砂浜を、大勢の人影が動き出した。

 イベントの主旨は、競争ではなく、自分の足で歩き通すということ。行事が始まった初期の頃は、時間制限が無く、本人がギブアップしない限り、何時間かけても良かったらしい。中には真夜中になってゴールするケースもあったとか。主催者の苦労は大変なものだったろうが、このイベントに込めた情熱も感じられる。

 競争ではないが、こういうイベントの場合は、必ずタイムを争う者が出てくる。その連中は、スタート直後から走り出す。実は私もそうだった。当時ジョッギングに凝っていたので、走りにはいささか自信があった。その日はいつになく気合が入っていて、起床した時点で既に脈が高かった。

 主催者がコース途中に休憩ポイントを設けていて、飲み物やパンを提供してくれる。だから、ほとんど身一つで走ることが出来る。私は雨具やタオル程度を入れたザックを背負って走ったと記憶している。

 左手に海を見ながら、ひたすら砂浜を走る。スタートして1時間も経つと、人影がまばらになる。時には、見渡す限り、前後に誰もいないという事態にもなる。あれだけの人数が同じ方向に向かっているのに、である。白い空と、灰色の砂浜。その二色だけの風景の中を、たった一人で走っていると、妙な孤独感に襲われた。

 河口をいくつか横断する。浅い川は歩いて渡るが、大きい川は橋のある場所まで遡って渡り、また砂浜に戻る。そのようにして、内陸の舗装道路を走る部分が何か所かある。後半になると、舗装の硬さが足にこたえた。

 ゴール直前の最後の区間は、直線的な浜であった。橋を渡って砂浜に戻ると、はるか先に太東崎が見え、その手前にゴールがあることが予想された。この浜が、長かった。体の疲れもピークに達し、意識がぼんやりとしてくる。そして妙に感情的になり、走りながら涙が出そうになった。

 ゴール地点には、竹竿を立てて横断幕を張った、簡素なゲートがあった。それをくぐると、居合わせた関係者から拍手が起きた。タイムは6時間半ほどだった。予想よりだいぶ良かった。順位は7番くらいだったか。

 さて、新入社員諸君は、途中の40キロ地点がゴールだった。本人が希望すれば、先へ行っても良かったが、ほとんどの人が40キロで終えた様である。翌週は、社内のいたるところで、足を引きずりながら歩く新入社員が見られた。私がいた部署の新入社員もその一人だったが、こんなことを言っていた、「ボクたちが40キロ地点にゴールインした頃、大竹さんは既に70キロをやり終えて、茂原の社員寮でビールを飲んでたんだから、凄いですね」




ーーー6/12−−− セルフスタンド 



 先週、軽トラで長野市へ材木を買いに行った。家を出る時、ガソリンメーターは既に下から四分の一を指していた。用事を済ませて帰路に着くころ、針の位置はほとんどゼロ近くになっていた。ガソリンメーターは、直線的に推移するとは限らない。ある範囲にかかると、急に進みが速くなったりするので、注意を要する。

 どこかでガソリンスタンドに入ろうと思った。ところが、そういう状況になると、なかなか見つからない。たまにあっても、道の反対側だったりする。道を横切るのが億劫で、つい先延ばしにして走り続けた。そのうちにメーターはゼロより下になってしまった。こうなると、結構焦る。

 最寄りのガソリンスタンドは何処だったかと、記憶を探る。そして、少し遠回りになるが、確実にある場所へ車を向けた。そこに着くまでにエンストするのではないかと、怯えながら走ったが、なんとか無事に到着した。ところがそのガソリンスタンドはセルフだった。私はセルフで給油したことが無い。これまで、食わず嫌いで避けてきた。しかし、今回は逃げようがない。

 給油機の前に居た従業員に、「いままでやったことがありません」と述べた。すると相手は、「大丈夫です、ご案内します」と言った。

 実は過去に一回、別のセルフ給油所に入ったことがあった。その時、係員に同じことを言ったら、私の代わりに入れてくれた。そして、「これからも、自分で入れるのがお嫌でしたら、遠慮せずに言ってください」と言った。さらに「車種によっては、給油管の構造から、満タンのセンサーが働かず、溢れてしまうことがあります。この車(日産マーチ)についても、そのような事例が報告されています。ガソリンが溢れこぼれる事故はたいへん危険なことですから、不安に感じるなら係員に任せて下さい」とも言った。

 今回も、従業員が入れてくれれば良いと思った。しかし、やり方を教えてくれただけで、「あとはご自分でどうぞ」、ということになった。説明の途中で、レバーを目一杯引くと、勢いが強過ぎて、軽トラの場合逆流することがあるので、中間の位置で保持した方が良いと言われた。また、十分奥までノズルを挿入しないと、センサーが作動しないので要注意、とも言われた。

 気が進まないまま、言われたとおりに給油を始めた。給油機のメーターがどんどん上がる。もうそろそろ満タンかなと予想した瞬間、ゴボゴボという音がして、給油口からガソリンが溢れ出た。慌ててレバーを放したら、流れは止まったが、既に溢れたガソリンが地面に広がっていた。恐れていた事態が、まさに現実となって目の前に展開した。

 従業員が二人、「溢れた!」などと叫びながら走り寄ってきた。先ほど説明をしてくれた男が、ノズルを抜いて戻しながら、「もう大丈夫です。服にはかかってませんか?」と私の足元を見た。幸いにも、服にも靴にもかかっていなかった。もう一人の従業員が、バスタオルのような布でガソリンを拭き取り、その後何かの薬剤をまいた。

 私が「驚いた。こんなことはよくあるのか?」と聞くと、例の男は「軽トラの場合、比較的このような事故が起き易いですが、しっかりノズルを挿し込んでいればまず問題無いのですが」と言った。私は、ちゃんとノズルを挿し込んでいたつもりだが、言い訳をしても仕方が無いので、黙っていた。その後は、何事も無かったかのようにして、会計を済ませ、スタンドを出た。

 自宅に戻り、ネットで調べて見たら、ガソリンの吹きこぼれ事故は、セルフ給油所の95%以上で記録されていて、その頻度は従来型のスタンドよりはるかに多いとの記事があった。その事故のほとんどはセンサーの誤動作によるもので、誤動作の原因は、奥までノズルを挿入していなかった事とか、十分な流量が確保されていなかった事などが挙げられていた。

 ガソリンが溢れてこぼれるなどと言うのは、言うまでも無く大変危険な状況だ。引火したら、たちまち大火災になるだろう。そばに火種が無くても、わずかな火花でもあれば引火することがある。静電気除去の操作をするのも、そのためだ。そんな危険に直結する事態を、まるで筋書き通りといった感じのよどみなさで、自分が招いてしまったことに、釈然としない気持ちを抱いた。

 セルフスタンドに対する嫌悪感は、一層高まった。これからも、セルフは避けようと思う。しかし、今回のように、やむを得ず利用しなければならないケースもあるだろう。その時は、給油量を指定して入れる事にしよう。満タンまで入れないということだ。10リットルも入れれば、間違いなく次のガソリンスタンドに着くだろう。




ーーー6/19−−− 嗽の効果


 学生時代に、部活の先輩から、朝の歯磨きは朝食後にしろと言われた。私は子供の頃から、起床してすぐに歯を磨いていた。先輩は、それではダメだと言う。歯磨きは、食事の際に歯に付いた食べかすを取り除く行為だから、朝食前に磨いても、何の効果も無いというのである。それでも私が、「昔からそう行なわれているのだから、何か利点があると思う」と言うと、「いいや、全く意味が無い」と決めつけた。

 それ以来、朝食後に磨くようになった。現在でもそうしている。朝食に限らず、三食の後に必ず磨く。それはそれで、先輩が言った理由で、意味のあることに違いない。だとすると、子供の頃から励行してきた、朝食前の歯磨きは、いったい何だったのだろう。昼食や夕食の前に歯を磨く人はいない。何故、朝食だけは、その前に磨くことが、世間で一般的に行われていたのだろうか。

 誤嚥性肺炎と言う言葉がある。口内の細菌が誤嚥によって肺に入り、発症する病気である。実は私の父も、脳溢血で入院中にこの病気にかかり、亡くなった。普段は気が付かないが、口の中には様々な細菌が存在するらしい。特に口を開けて寝ていると、どんどん増殖するとのこと。夜の間に、口の中に細菌がはびこってしまうこともあるということだ。

 起床直後に歯を磨くという伝統的な習慣は、夜の間に溜まった口の中の汚れを除去するという意味があったのかも知れない。そうしないで朝食を取れば、食事と共に雑菌を飲み込んでしまうことになる。そのように考えれば、起床直後の歯磨きは、とても重要な行為だと言える。

 そう思い至ってから、私は毎朝起床直後にうがいをすることにした。雑菌を吐き出すためである。歯磨きは、朝食後に行う。その理由は、他の二食と同じ。そのスタイルにして、一年くらいになる。そのせいかどうか分からないが、腹下しをすることがめっきり減った。以前は日常的に下痢をしたが、最近はそれを心配することすら無くなった。こういう体の変化は、単一の原因に帰することはできないものだが、なんだか関係がありそうな気がする。

 口の中は汚れている、とは思いたくないが、実際はそうなのだろう。医学が発達していなかった昔から、人々はそのことを知っていた。神社に入る時は、手水舎で手を清め、口をすすぐ。相撲取りは立ち会いの前に、柄杓で口をすすぐ。いずれも不浄を正す行為である。そして昔の人は、塩で歯を磨いたそうである。となれば、衛生上の理由は明白である。朝の気分を爽やかにする、などという精神的なものでは無かったのだ。伝統的に行われてきた事には、理にかなった背景があるということか。

 理系学生の先輩も、そこまでは考えが及ばなかったようである。




ーーー6/26−−− スクリーンから呼びかける


 先月大町市文化会館で映画「黒部の太陽」を観たことは、既に書いた。その公演が、チケットが早々に売り切れるという好評だったので、主催者は急遽1ヶ月後に再上映することを決めた。前回は私一人で行った。帰宅して感想を述べたら、家内が「私も行けば良かった」と言った。そこで、家内を連れて再上映を観に行くことにした。早々とチケットを購入し、当日を待った。かくして私は幻の名画を、1ヶ月の間に二回観る事となった。

 二回目となると、これまで見過ごしてきた事に気が付いて、面白い。

 この映画は、黒部ダム建設の資材を運ぶために、北アルプスの山脈を貫くトンネルを掘った工事の出来事をテーマにしている。工事半ばで破砕帯という地層にぶつかり、大量の出水によって工事が行き詰った。結局苦労の末に破砕帯を突破できたのだが、わずか80メートルを抜けるのに7ヶ月かかったという。

 映画の中で、やっとのことで破砕帯が終わり、健全な岩盤が現れる。工事責任者が現場で、「○月○日×時×分、破砕帯を突破しました」と宣言するシーンがある。その言葉を述べる顔が、真正面を向いていた。映画を観ている観客に向かって、述べられていたのである。難工事の厳しさを目の当たりにし、早く破砕帯を抜けられれば良いと言う願いを共有していた観客に対して、「ようやく終わりました」と伝えたのだ。映画監督の思いが感じられた。

 ところで、スクリーンから観客席に向かって語りかけるというシーンで、有名なものが有る。黒沢明監督の「素晴らしき日曜日」。若い男女のカップルが、夜の野外音楽堂でデートをする。そして、女性の方が、舞台の上から誰もいない客席に向かって、「私たちのような貧しい若者に、励ましの拍手を下さい」と呼びかける。その顔はアップで、真正面を向いている。もちろん映画の中では拍手の音は生じない。しかし数秒後、二人はそろってこちらへ向けて頭を下げる。

 このシーンは、監督が、映画館の観客に向けて発したメッセージだと言われている。日本ではそういうことは無かったが、フランスで上映した時は、実際に大きな拍手が沸き起こったそうである。





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